ベルリンの壁崩壊正しくはいつ!?原因や理由、現在などについて 

今年でベルリンの壁が崩壊してから30年!

ドイツでは東西冷戦の象徴だったベルリンの壁が崩壊して30年を記念し、各地で記念の催しが行われています。

9日の記念の催しの際、シュタインマイヤー大統領は演説で、

「多くの犠牲者を出した非人道的な壁はもうない。しかし、ドイツ社会には怒りや憎しみ、疎外による『新たな壁』ができた。取り壊せるのは私たちだけだ」

と述べて、ドイツ社会の分断を乗り越えようと訴えました。

今回はどうしてベルリンの壁は崩壊したのか?

この当時のドイツはどのような様子だったのか?

など、ベルリンの壁崩壊という大きな歴史の一ページについて掘り下げていきます!

ベルリンの壁の崩壊、諸説あるが正しくはいつ!?

ベルリンの壁の崩壊については諸説あります。

1989年11月9日という説やいやいや1989年11月10日という説。

正しくは、、、1989年11月9日〜10日にかけてです。

それまで東ドイツ市民の大量出国の事態にさらされていた東ドイツ政府が、その対応策として旅行及び国外移住の大幅な規制緩和の政令を「事実上の旅行自由化」と受け取れる表現で発表したことで、その日の夜にベルリンの壁にベルリン市民が殺到し混乱の中で国境検問所が開放され、翌日1989年11月10日にベルリンの壁の撤去作業が始まったのがベルリンの壁崩壊です!

つまり11月9日に発表され検問等が撤去されました。

良く11月10日に実際に撤去作業が行われ、同日法的に東西の往来が可能となったとのことです。

これにより、1961年8月13日のベルリンの壁着工から28年間にわたる、東西ベルリンが遮断されてきた東西分断の歴史は終結しました。

そして、翌年1990年10月3日に、「ドイツ民主共和国に再設置された各州がドイツ連邦共和国に加盟する」という名目(実質的には編入)にて、東西ドイツの統一。

ベルリンの壁崩壊の原因は?まさかの設計ミス!?

後に詳しく記載しますが、東ドイツを率いる社会主義統一党のスポークスマンだったギュンター・シャボウスキーの大きな勘違いは原因となります!!

また、設計についてはリサーチしましたが、ミスというよりその当時一夜で壁が作られたので、雑というか・・・

1961年8月13日、東西ベルリンの境界線が封鎖され、西ベルリンをぐるりと取り囲む「壁」が築かれたのですが、ベルリンの壁が建設されたのはベルリン市民が寝静まっている深夜です。

その後補強はされていますが・・・

壁についてはリサーチを継続し、分かり次第追記します♪

ベルリンの壁を解体するに至った経緯や理由を分かりやすく!

1989年11月9日、東ドイツを率いる社会主義統一党のスポークスマンだったギュンター・シャボウスキーは、記者会見の場で、これまで制限してきた西ドイツへの出国を大幅に緩和すると発表。

「すべての東ドイツ国民に、東ドイツからの出国を認める」

と発言したのです。

それに対し、記者からいつから出国が認められるのかと問われたシャボウスキーは、

「私の理解では、ただちに」

と返答。

ニュースを知った民衆が検問所に押し寄せ、ベルリンの壁を突破していきました。

実は、シャボウスキーが会見で発表したこの内容は、本来の東ドイツ政府の意図とはまったく異なっていました。

東ドイツ政府が外国旅行の自由化を決議した事実はありましたが、それは翌日の10日午前4時までは発表してはならない内容だったことに加え、そもそも旅行の自由化はベルリンの壁からの出国を除く決議でした。

ところが、その計画が話し合われた会合に出席していなかったシャボウスキーは、うっかり解禁前の内容を発表してしまったばかりか、

「すべての検問所から出国が認められる」

「ただちに発効される」

と勘違いしたまま発言してしまったのです。

このうっかり発言は歴史上最も素晴らしい勘違いと言われ、シャボウスキーは、「歴史を変えた男」と称されました。

そして、ベルリンの壁崩壊翌年の1990年、ついにドイツの東西統一が実現したのです。

まとめ

今回はベルリンの壁崩壊から30年を記念し、ベルリンの壁崩壊という歴史について深く掘り下げてみました。

筆者のよく知らない部分が多々あったので、これを期に歴史を振り返ることができました(^^)大きな勘違いが歴史上で起こっているとは・・・(笑)素晴らしい勘違いになってよかったです♪

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