日本が鎖国をした2つの理由知ってますか?その期間やオランダと貿易を続けたわけとは!?

ペリーが4隻の黒船とともに浦賀にやって来たのが1853年6月3日。

あれから165年の歳月が流れ、時代はすっかりインターナショナルになり、国境はもはやボーダーレスになりました。

今は、外国のテレビも観れるし、外国製品も簡単に手に入ります。

外国料理だって、わざわざ外国に行かずともおいしく食べられる場所があります。

こんなに身近になった海外ですが、日本は明治時代の文明開化を経て、どんどん西洋化されていきました。

その文明開化のきっかけとなったのが、「 開国 」。

そしてこの開国は、200年間続いたある時代の終わりとともに幕を開けました。

それが皆さんも歴史の授業で必ず習った「 鎖国 」です。

今の日本からは想像できないほど、国を制限していた時代があったのです。

今回は「 鎖国 」について、振り返ってみたいと思います。

新たな発見があるかもしれませんよ!

日本が鎖国をした2つの理由とは?

幕府が鎖国をした2つの理由を簡単に言うと、

  •  キリスト教の脅威を徹底的に潰すため
  • キリスト教の脅威から逃れるため

という理由からのようです。

ではなぜ鎖国が行われたのか?

ということですが、ヨーロッパとの貿易は信長の時代に始まったと言われており、信長が本能寺の変で倒れ、秀吉の時代になるとキリスト教信者の勢力が徐々に強まってきたことに端を発します。

「日本を乗っ取られる!」

と思った秀吉は、宣教師たちを片っ端から追放していきます。

これが「 バテレンの追放令 」と言われている出来事です。

しかし、宣教師たちが追放されても、キリシタンは九州地方を中心に勢力を増し、やがてキリシタン大名まで誕生します。

家康の時代には、農民などのキリシタンも藩主の悪政に苦しめられとことで反乱を起こし、やがてそれが幕府への反乱へと発展していったのが、有名な「 島原の乱 」です。

結果、キリスト教に関わる外国との貿易を禁止し、キリスト教の布教を禁止しました。

キリシタンやキリシタン大名を潰し、外国への渡航や帰国を禁止、影響のない中国やオランダのみと貿易を制限したのです。

日本にいるキリスト教関係者を次々に処刑し、外敵が来ないようにバリアしたのが「 鎖国 」なのです。

鎖国していた期間はどれくらい?開国の背景は?

このように、キリスト教を排除し貿易を制限した鎖国は、約200年続きました。

18世紀後半になると、オランダ以外の欧米各国も市場拡大のため、日本との通商を求めてくるようになります。

これに対し幕府は1825年「 異国船打払令 」を出し、外国船を追い払う方針を示しましたが、1842年、同じように欧米との通商に反発していた清が「 アヘン戦争 」でイギリスに敗れ、開国を余儀なくされました。

ペリー来航以前から、アメリカは日本と接触を続けていましたが、ペリーの強硬手段が功を奏した形で、日本は開国することとなったのです。

鎖国中オランダなど特定の国との貿易を続けた本当の理由

もともと日本は、中国や朝鮮などと古くから貿易を続けていました。

ヨーロッパとの貿易が始まったのは、信長の時代でポルトガルの宣教師たちが日本にやって来て、布教活動を信長に許可されたことから交流が始まったと言われています。

そしてそれはやがて、スペインやイギリス、オランダへと発展していくのですが、それぞれ日本との交流の目的が違います。

まず、ポルトガルとスペインの目的は、諸外国と同じように、日本を植民地化することでした。

また、「 バテレンの追放令 」や「 島原の乱 」のような騒動の根底にあるのは、キリシタンの弾圧です。

そのため、脅威となるキリシタンは潰しにかかったため、キリスト教国であるスペインやポルトガル、イギリスとの貿易は中止となりました。

結果残ったのがオランダで、中国とはそれ以前より貿易があったため、そのまま継続されたと言われています。

まとめ

いかがでしたか?

実はこの「 鎖国 」、国を閉ざすためではなく、制限するための施策だったようです。

しかも、家光自ら「 鎖国 」という表現は使っておらず、江戸後期につけられたこともわかっています。

大きな黒い軍艦が、4隻も来た時の日本人の衝撃はすごいものだったんでしょうね。

一時期日本人は外国かぶれしている、と言われた時代がありましたが、開国がなければ今の日本も状況が少し変わっていたかもしれません。

たくさんの歴史があって、今が成り立っていると考えると、当たり前のような当たり前でない日常に、感謝の念すら覚えてしまいます。

やっぱり歴史っておもしろい!!